- 苦しいこそ陽転思考
- 肉体的、精神的に苦しい立場に立たされた時に「今 自分は強くなっている。楽しみだ」と考えてトレーニングしよう。
又、「新しい自分を見つけ出すチャンスに恵まれた。思い切り良くやってみよう」と考える。
逃げる気持ちになった人には「勝利の女神は微笑まない」
- 終りは、始まり
- 「勝って兜の緒を締めよ」にも通じるが物事の終了とは、次へのスタート地点に着くことである。
- 負けてくじけず
- 幸にも勝ったときには、とかく「間が良くなり気が緩む」ものである。
逆に残念ながら負けたときには、「自信がなくなり気が沈む」ものである。
「勝っておごらず、負けて挫けず」謙虚な気持ちで次の目標に向かえ。
- 今日は昨日の己に克つ
- 「継続は力なり」とはいうが同じ事を繰り返すのでは能が無い。
昨日とは違うこと(意識、行動なり)をして昨日より今日の自分の方が強いという実感を得て楽しい気持ちで家路に着く。
- 時間は命
- 100年後に自分はこの世に存在していない。
「時は金なり」と云うのは時間の経過とは命を確実に欠くことであり、時間がいかに貴重かというのを表現している。
その貴重な時間は有効に費やさなければならない。
日々新しい発見があれば、苦しい稽古も楽しいものとなる。
- 間合いを切る
- 空手道は殺人拳ではなく活人拳でなければならない。
喧嘩が強いと意気込んでいる者を仮に打ちのめしたりしても傷害罪で捕まったり、殺してしまえば殺人者になる。
相手が喧嘩腰なら逃げると図に乗るので機先を制し、「来るなら来い。しかし痛い目に遭うのはお前だ」という気概で相手を制して無用な喧嘩を避ける。つまり相手を制して間合いを保ち、相手を制して最終的に間合いを切る事。
- 人間には大差は無い
- 勝者は鬼のように強く見え、敗者は無力感を味わう。しかし発想を転換してみよう。
弱い者も、自分に弱点を補い、得意な所を更に伸ばし、相手の弱いところに当てれば、勝つ可能性が生まれるのではないか。無いものねだりをするのでなく、創造力を働かせよ。
工夫は無限の可能性を秘めている。
- 人から貰うなら謙虚に貰え
- 人があげると言うなら感謝して頂け。
物に限らず、教え、忠告も謙虚(素直)に聞け。
ここで重要なのは自分をしっかり持っているということだ。
主体性なく教えや忠告に従うだけでは他者の奴隷になってしまう。
重要なことは教えや忠告を取捨選択し自分のプラスにしていく事である。
- 自己主張
- なぞること、つまり人真似は大切である。空手でいえば強い選手の戦い方を真似て上達する方法もある。しかし一定のところまできたらそこからは自分らしさを出さなければならない。
自分流、自己流で戦うのである。
空手だけに限らず主義・主張の無い人間は困難に陥ったとき理解不可能なものに盲信してしまう。
例のある宗教事件の信者等が良い例だろう。
- 勝負を気にするな
- 勝負をする以上、勝負を気にするのは当然だが勝負を気にし過ぎてはいけない。
勝負にこだわらず自分の弱さ、甘さを断ち切るチャンスに恵まれた。
今日の試合が楽しみだと考えれば新しい自分を発見できるかもしれない。
- 自己完結
- 自分に自信を持つというのはなかなか難しい。だが自信がなければ勝負に勝つのは困難である。
少し発想を変えて「自分にはこれしかない」と考えればどうだろうか。
その唯一それしか無いならばその一つを極わめようと必死になり、その一つで自分は勝負に勝つんだと全身全霊を注ぐだろう。
「自分にはこれしかない」、自信を得ようとする者には至言といえるだろう。
- 壁
- 人生に壁はつきものである。壁が立ちはだかるということは何かに熱心に打ち込み、 努力している証拠でもある。壁を乗り越えようとせずにそこから逃げても新たな壁が立ちはだかる。
無為に日々を過ごして壁など現れないような者でもその分いつか必ず想像しないような壁にぶつかることになる。
人間に障壁はつきものである。ちゃんと乗り越えたかで人間の価値は決まる。
多く乗り越えればそれだけ次の壁が現れても苦もなく乗り越えることができるだろう。
- 勇気
- 人間がこれを失うと終わりといういうものはなんだろうか。
人によっていろんな意見があると思うが人間は勇気を失ってはならない。
イスラエルの古典教本に「人間は勇気を失うと全てを失う」ともある。
空手は勇気を身につけるところでもある。殴られたり蹴られたりしたら当然痛い。
しかし殴られるのではないだろうか、蹴られるのではないだろうかと恐れて及び腰になっていては意味がない。恐れず前へ出て相手を攻める。
これが空手の骨頂である。
- 一撃必殺
- 空手はポイント合戦ではない。ポイント合戦化しつつあるが少なくとも我が空手道部はこの一撃で倒すという突き蹴りを出すとういう考えが基にある。
試合はルールのある中で行われる。社会にもルールがあるがそれを遵守する人間ばかりとは限らない。相手が暴力を振るってきたとき法が守ってくれると思ったり、暴力はいけないと習いましたと言っても通用しない。その時は相手を一撃で倒す、我が部員はこれを身に付ける為に日々鍛錬していると言っても過言ではない。そしてこれが真髄でもある。
- 一技先回、夢自(おの)ずから叶(かの)う
- 競技時間というのは意外と短い。特に武道はサッカーや野球と違い90分や何時間も行わない。
一技は一つの技とも一試合の競技とも解釈できる。その一つの為に千回の、つまり無限に近い稽古を行うような心構えで実行する。
並大抵のことではないがそうすれば夢の方が自分に近付いて来る。
強くなりたい、勝ちたいという願いも叶うであろう。
- 守破離
- 物事を学ぶに当たり段階がある。
例えば物事を始めるに当たってその道の達人である師匠に師事したとしよう。その時師匠の言ったことはそのまま全面的に受け入れ師匠が黒を「白」と言ったら己も「白」と言うような心意気を持つことである。
師匠の教えをそのまま受け止め、その言を忠実に守ることが「守」である。そして物事の理が分かり始めたら自らが創意工夫をしなければならない。
師匠の教えを全面的に受け止めるのではなく、今の自分にふさわしい忠告は何かを考え師匠の教えを取捨選択しなければならない。
物事の理が分かり始めると教えの中には己にふさわしくない忠告や教えも出てくる。つまり取捨選択するという事は師匠の教えの一部を破ることである。これが「破」である。そして物事の理を完全に極めれば何もかもを自分で考え判断できるようになり師匠の言は必要としなくなる。つまり師匠から離れ一人立ちする時である。
これが「離」である。物事の理も知らない段階で始めから「破」を実践し「守」を疎かにし、いざ困ると「守」に転ずるのという事は往々にして人が陥りやすい点である。
物事の理を極めるというのは「守破離」こそ道理である。
- 頭を使う
- 頭がよい、頭が悪いと人はよく言う。しかし頭は使い方次第なので頭がよい、悪いというのは頭の使い方がよい、頭の使い方が悪いということである。
何でも使い方をよくしようと思ったらその為の創造、工夫、研究などは欠かせない。そしてそれを実践(練習)し会得できる人間が頭がよい、つまり頭の使い方がよいことになる。人間は頭の使い方が上手だったからこそその叡智を結集して今の文明を築くことができた。
一連の米同時多発テロ事件でアメリカはどう出るか。この事件は許されるものではない。
制裁は加えなければならない。しかしただ単に圧倒的な軍事力で制裁を加えるようでは頭の使い方がいいとはいえない。叡智を使って相手(敵)を相手を倒す、それは空手でもいえることである。
- 気拳体の一致
- 気は呼吸、気合、拳は突き蹴り、体は体力、身体である。人は弱い、だから練習をする。
練習するのは内容を充実させるためである。それでも試合で緊張するのは自信がないためで
自信を得るのは気拳体を充実させなければならない。その為には普段の練習から
気拳体を充実させるしかない。練習でしたことしか試合では出せない。強い者は大勢いる。
負けたからといってどういう事はない。しかし負け方による。だらだら練習していては
強くはならない。
- 礼と節
- 礼とは礼儀、節とはけじめである。礼儀とは敬意を表す方法である。その為には
まず基本として返事、挨拶ははっきりと大声でしなければならない。何も難しいことではない。
けじめとは人が守れなければならない節度ある態度である。
報告、連絡、相談をしっかりするのがけじめである。礼と節は人間の尺度を測る重要な要素の一つである。
- 信仰心
- 人が困難に陥った時、心の拠り所というものがないと困難に耐えられず立ち向かうことが難しくなる。極端な例をとるとアフガニスタン・タリバン政権のような軍事的、経済的に貧弱な国家が超大国アメリカに果敢に立ち向かうのは「宗教」があるからである。
宗教への信仰心が明らかに勝ち目の無い絶望的な戦いでありながら屈することを拒んでいる。
人間には狂信的なものは別として信仰が大切である。特にアメリカでは宗教を持っていない人間を不気味に思い極端に嫌う。日本では政教分離のため公の場で宗教はタブー視されている。
教育の場でも宗教は避けられている。しかし人間は宗教を持たなくてはならない。
日本では最も仏教を信仰している人の割合が多い。海外に行くと外国人によく何の宗教を持っているかと聞かれる事が多い。その時はもし仏教を信仰しているなら「I am Buddhist(仏教徒)」と堂々と答えることが重要である。別に仏教徒という言葉に違和感を覚える必要は無い。キリスト教徒を「Christian」と言うのとなんら変わりはないからだ。